幻想七陸交易記 ~1~

 時は15世紀末、いまより500年ほど前のこと。

 ――1482年、8月半ば、イタリア半島。

 ティレニア海沿岸部を伝う街道に旅人達がいた。

 その街道・アウレーリウス街道は、のちに長靴状と呼ばれるこの半島の中心部にあたるローマより北西、ジェノヴァへ向かう、いわゆるローマ道のひとすじである。
 逆に言えば北方ジェノヴァ方面より聖地エルサレムへ向かう巡礼の路でもあったから、旅人がいるのは不思議なことはなく、このように夏の暑い陽の元でも行き交う商人や巡礼者を含めた旅人の往来は尽きずにいた。

 それでも、その旅人達はどこかしら風変わりな気配があった。

 先頭を歩く若者、荷馬を挟む郎党二人、合わせて三人。荷車を引く馬は、ひどく老いぼれ栗毛には艶はなく、両脇を歩く郎党風の男達もまた年老いていた。青年の歳は15、6といった辺りだろうか、身なりはいたってみすぼらしく、一応、護身用の剣を腰に刺してはいるが、装飾の欠片も見当たらず、鞘は錆が遠目でもわかるほど古めかしい。

 要するに、このような貧乏臭い青年が二人の家来を付き従えて歩いているのがおかしいのだ。ふと行き違った商人達も、訝しそうにしげしげと三人を眺めている。

 もうひとつ、青年の変わったところと言えば顔つきだ。なかなか凛々しげな面魂だ。若者特有の覇気を感じさせる瞳も澄んだ雰囲気も併せ持ち、郎党と何か会話を交わす時に見える白い歯並びも決して下品ではない。
 そういう意味では、彼の身につける衣装は、肩に羽織る皮の外套<マント>にしろ、内に着た麻の服にしろ、継ぎ接ぎに幾重と縫い合わされた跡だらけだが不思議と賤しさを感じさせることもなかった。
 行き違った商人は、台車の上の藁でくるまれた荷などよりも、ともすれば彫刻の標になりそうな青年に目を光らせる。

(なるほど、見てくれはていの良い乞食同然だが、おそらくは貴人の子か)

 先だって十数世紀、イタリアの半島はいまだ統一されたことのない戦争の絶えぬ地域であった。故に、財に富む商家や貴族の名家の主家が執政を司り、いまなお自治都市<コムーネ>によって割拠している時代でもある。
 たとえば今歩くこのアウレーリウス・スカウルス街道もまた、アウレリウス家とスカウルス家から輩出された執政官が普請した国道ならぬ”執政街道”と称されている。
 血統ではなく家筋により盛衰する共和国では、特に戦乱の最中にある商家や商業貴族の門閥争いなど茶飯事と言えた。

 旅の商人はにやりとし、彼らのぼろぼろな背中を見送った。
 没落した貴族か商家の子であろうが、商いは人によって盛衰が決まる。この若者は成功するに違いないと笑ったのである。

 成功するしないは神のみぞ知るところだが、彼の出自に対する推測は当たっていた。
 ぼろを纏う旅の青年の名はストラッド・オーヴェ。海洋交易でその名を馳せたオーヴェ家の現嫡子となる。ジェノヴァにあるオーヴェ家と言えば、特に明礬<ミョウバン>の交易筋ではわりかし通った名ではある。が、交易は一代、いや一年にして財を築くこともあれば、当人に関係のないところで都市通貨や産物が暴落して、一夜に財を失うこともある。オーヴェ家の場合は、ただ商売敵となるコムーネの私掠船によって、父や財、それらの命脈を絶たれた。無論それだけが全くの理由ではないが、とにもかくにも盛衰激しいそういう時代なのである。

 郎党の一人、白髪のマウロが土埃まみれの顎を拭いながら言った。

「今しがた擦れ違った商人は……コンスタンティノーブルからやってきたのでしょうかな」

 丈の長い上着<カターフ>に、赤色のターバン。コンスタンティノーブル――新名をイスタンブール――その商人であろうと、マウオは口元を緩めた。

「それがなんだ」と、先頭をきびきび歩いていたストラッドは露骨なまでに顔を歪めた。

「今ごろ、あちらはさぞかし栄えておるのでしょうなあ」

 荷車を隔て、隣を歩くもう一人の郎党、白髪も少なくマウオよりはいくばくか若い感じのするカミイロは「うむうむ」と頷く。

「御曹司、お父上の船を沈めたオスマンの者が許せぬのはわかります。
その思いは私もカミイロも同じ。しかし商道においては無用の長物」

 マウロの言葉にカミイロはまた「うむうむ」と頷いた。がストラッドは鼻を鳴らした。

「オスマンの連中とは絶対に取引などせん。やつらが栄えれば、それだけ損をするのはこちらだ」

 やれやれ、とマウロは首を横に振ると、ストラッドもそれ以上喋ろうとはしなかった。
 口論が途絶えると、ふとカミイロが言った。

「御曹司、空腹たまらんのでしょう。怒るからですな」

 カミイロは頬にえくぼをつくり、荷台に積まれた藁の束を叩いた。

「食事にしませんか」

 話は少し遡り、30年ほど前のことになる。コンスタンティノーブルは東ローマの国、所謂キリストの国であったのだが、西方より勢いを増してきたオスマン帝国によって陥落したのである。

 西暦にして1453年、5月29日。

 この日を境に、地中海と黒海を結ぶ海上交通の要衝をオスマン側に抑えられてしまった。あくまでも支配圏が変遷しただけで通商権自体はジェノヴァもヴェネツィアもかろうじて保有してはいるが、経済的な大打撃は免れなかった。
 ではあるが、東ローマ帝国崩壊は単に商業圏が遷り変わったというだけでは済まなかった。

 支配者の顔ぶれが変わった。
 コンスタンティノーブルにあるキリスト教会がオスマンのモスクに改築された。
 援軍であったはずの十字軍のあまりな不甲斐なさにより、教皇の威厳が失墜をした。
 北欧人の砂金と称される香辛料が高騰する。
 文字通り、古代より中世を謳歌したローマ帝国の系統がここで完全に途絶えた。

 ――否、そうではない。

 それだけのことであれば、やはり茶飯事。
 茶飯事ではない。黒海交易、欧州の命泉である地中海だけでもなければ、欧州アジアのユーラシア大陸やアフリカ大陸だけに留まるような事件ですらない。

 東ローマ帝国崩壊とは、世界、7つの海と陸とが不可視の情報線で繋がれ、交わる時代の到来、すなわち大航海時代を迎えることになる。

 1500年間、信じられていた天と地の定義すら、瞬く間に反転するような時代。
 誰に想像できようはずもなく、しかし嫌が応にも受け入れざるを得ない革命よりもなお革命的な変革期。
 いま、海岸沿いのローマ街道の端くれで地中海を眺めながら下人達と安っぽい干し芋を囓る貧しい欧州の一青年ストラッド・オーヴェにすらも例外なく、膨張した情報という名の波が押し寄せようとしていた。


(――つづけ)


                  著・MAO-
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